AIの主権を保ち、閉ざされた知をつなぐ。伊藤 章が導く「ソブリンのある信頼」Trust in AI

Interview article | 2026年10月13日
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イノベーションの創出には、自社のデータや知見を外部と連携させることが欠かせない。一方、一度でもコントロールの効かないシステムにそれらを明け渡してしまえば、二度と主権を取り戻すことはできない。AIにデータを与えることは、機密情報の漏洩リスクがあり、「開くこと」で得られる成長と、「閉じること」で守れる安全が常に隣り合わせである。こうしたトレードオフを解消し、AIに安心して仕事を任せられる環境をつくれなければ、企業の持続的な変革と成長への道は閉ざされてしまうだろう。
AIエージェント時代の新たな問いに対し、数理と社会実装の境界から答えを導き出そうとする挑戦者がいる。富士通の研究者、伊藤 章。彼の挑戦は、「信頼できるAI(Trust in AI)」を支える要素の一つである「ソブリン」を実現し、組織を超えたAI連携を可能にする土台への探求だ。そのルーツは、シンプルな原則が織りなす世界の美しさにあった。
Trust in AIとは?
Trust in AIとは、AIが急速に進化するなか、人が把握し、制御し、責任を持ち、システムや運用、ガバナンスまでのすべてのレイヤーに「信頼」を組み込む考え方です。Explainable(説明可能)、Secure & Ethical(安全・公正)、Sovereign(ソブリン)、Sustainable(持続可能)、Connected(接続)の5つの要素を通じて、人・企業・社会が安心してAIを活用できる未来を目指しています。
本シリーズ「AIの未来を描く人々」では、Trust in AIを支える技術に携わる”人”の原体験や価値観を通して、各技術がどのような課題意識から生まれ、どのような未来を目指しているのかを紹介します。
世界標準を目指した挑戦
2000年代初頭、入社間もない伊藤は「ワイヤレス(無線通信)技術の追求」というミッションの最前線にいた。当時は、携帯電話の通信規格が2Gから3Gへと移行しようとしていた過渡期。技術大国・日本が世界標準を牽引するというプライドを胸に、富士通を含むさまざまな企業が一丸となって世界一を掴もうともがいていた。納期は厳しく、オフィスでの泊まり込みも当たり前。今では想像もつかない「モーレツ」な環境だった。
だが、そこには確かな熱気があった。「自分の創り出した技術が社会インフラとなって世の中で使われる」という喜びはやがて、彼の心にテクノロジーが社会に貢献する確かな手応えとして刻み込まれた。
数式が解き明かす「シンプルな美しさ」とAIスペースへの挑戦

静岡県富士市に生まれ、雄大な富士山のふもとで三人兄弟の長男として自由に伸び伸びと少年時代を過ごした。幼い頃から「考えること」そのものが大好き。学校の授業の中でも算数や理科、数学、物理といった理系科目に心躍り、魅入られるように学んだ。
「極めてシンプルな基本原則や数式から、目の前の複雑な物理現象が鮮やかに導き出される。その定式化のプロセスに面白さを感じた」。世界は誰の目にも複雑で混沌としているように映る。そんな現実をシンプルな数式によって誰もが合意できる形に整理することに喜びを感じた。こうした生来の好みは研究者としてのDNAだろう。上京して進んだ大学院では物理工学を専攻し、量子光学を研究。修了して引き続きアカデミアの道を選ぶ同期もいた中、「いろんな人に使ってもらい、社会に役立つような仕事」を求めて富士通に入ることを決めた。
2012年、伊藤はさらなる飛躍を求めて米国カリフォルニア州サンノゼの研究所へと赴任する。目にしたのは、プロダクトの制約に縛られず、大学との強いつながりの中で自由に研究を謳歌する現地の研究者たちだった。言葉や文化の壁に直面しながら、プラスの刺激を受けながら。多国籍のメンバーとともにプロジェクトに参画し、新しいネットワーク技術である「情報指向ネットワーク」の研究に傾倒していく。
その技術は、コンピュータやサーバーの所在地を指定して通信する従来のネットワークとは異なり、必要なデータそのものを指定して取得するという発想に基づいていた。加えて、データが改ざんされていないか、信頼できるものかを検証できる仕組みも備えている。これはまさに、データ主体へと視点を転換する新しいアプローチだった。米国での4年間にわたる挑戦と知見はやがて、「AIスペース*1」という最先端の分野に挑むための礎となっていく。
*1 AIスペースとは、企業・組織の垣根を越え、「信頼のデジタル基盤」上で複数のAIが相互接続し、必要なデータを目的に応じた形式で連携して協調する、動的な価値創造空間。
ソブリンが支える「主権ある信頼」の確立に挑む

2016年に帰国した伊藤は、情報指向ネットワークの技術を応用した研究や実証に従事した。その一つが企業間のデータ連携基盤だ。大量のデータに暗号化やアクセス権を紐づけ、データがネットワーク上のどこに移っても「誰が、どのように使っていいか」のガバナンスを元の所有者が握り続けることができる。データを安全に、効率的に、主権を手放すことなく流通させるアプローチだ。
この考え方の根底にあるのが「ソブリン(主権)」という概念だ。デジタル空間におけるソブリンとは、自ら保有するデータやAIに対する意思決定権や統制権を失わないことである。データの利用範囲やルールを主体的に定め、管理できなければ真の信頼は成り立たない。
技術革新のスピードは凄まじく、データ利活用の主戦場はこの10年間でAIへと急速にシフトした。AIはデータの質と量によって性能や精度が変わる。データが特定の企業や組織の中に閉じている限り、新しいイノベーションは起きにくい。「企業間のAI連携を通じて、新たな知見が次々に生まれ、人々がより便利に、安心して過ごせる社会になるように、世の中に貢献していきたい」。そんな思いを胸に、伊藤はAIの信頼の核となるソブリンを技術によって保証する課題に正面から向き合う。
企業が主権を握ったまま、いかに外部のAIと安全に連携できるか。代表的な技術が「セキュアエージェントゲートウェイ」だ。企業と外部の世界をつなぐ「関所」となり、自社のAIエージェントが外に発信しようとする情報やアクションをリアルタイムで監視・制御する。また、企業の取引ポリシーやガバナンスルールを数理的にモデル化し、AIエージェントにやっていいこと・悪いことを教え込む「ポリシー制御技術」、AIエージェントによる機密情報の推測・漏洩を防ぐ「AIエージェント間ガードレール技術」が関所のわきを固める。こうした技術は、人間の柔軟で高度な判断力をAIエージェントに実装するプロセスそのものと言えるだろう。
「主権ある信頼」の確立に挑む
旧来の競争原理は、企業や組織が自らのデータを囲い込み、閉じた知能で効率化を競う「サイロ型」だった。これではせっかくAIを導入してもフル活用できず、個別最適に陥ってしまう。
AIスペースは旧来の原理を覆す。企業、業種、国・地域の枠を超え、AIエージェント同士が自律的に連携し、協調を繰り返す。単独では解決が難しい複雑な課題への対応、新たな成長機会の創出などを実現できる可能性が飛躍的に高まる。データとAI駆動のエコシステムのダイナミズムを引き出し、新たな競争優位性を生む。まさに、価値創造のルールそのものの変革だ。この土台となるのがソブリンなのだ。
「ソブリンを担保し、これまで使われていなかったデータを安心して活用できるようにすること。データ連携によって、どれだけ大きな価値が生まれるかという未来を具体的に提示すること。この2つが大切だ」
「相手のAIエージェントがどんなAIなのかの証明。自分のAIエージェントが意図に沿って動いてくれる保証。これらがAIエージェントを普及させていくうえで大事になる」
かつてシンプルな数式に世界を解き明かす美しさを見出した少年は、いつしかAIに主権と信頼をもたらす研究者となった。テクノロジーの力で企業間のサイロを壊し、新たな知の循環を生み出す――その道のりは、富士山の頂まで続くような険路かもしれない。それでも、ひょうひょうとした佇まいでいつの間にかたどり着き、さらにその先へ進んでいるのだろう。伊藤の「ありたい未来」を実現するための旅路は今、何合目だろうか。


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