池田敏雄ものがたり

天馬空を行くがごとく生きた男 池田敏雄 ~ 国産コンピュータに賭けた天才の軌跡 ~

「日本のMr.コンピュータ」と呼ばれた富士通の技術者・池田敏雄の写真

戦後日本の急激な発展に、国産コンピュータの果たした大きな役割はいうまでもない。コンピュータの国産化を富士通にあって力強く推し進めた一人の男がいた。「コンピュータの天才」と広くうたわれた故池田敏雄である。51歳の短い生涯をコンピュータの進歩とともに歩んだ天才の軌跡を振り返ってみたい。それは同時に、日本の国産コンピュータの創世記と、興隆へと向かう物語ともなるだろう。

池田の数学ノート 几帳面な字からその人柄が偲ばれる
池田の数学ノート 几帳面な字からその人柄が偲ばれる

若き池田敏雄は、まことに型破りな人間だった。あまりにも型破りすぎたとさえ言えるかもしれない。なにしろ、新しいアイデアが浮かび、それに思考が集中すると、何日も自宅にこもり、出社するのを忘れてしまうほどだった。半面、何日も会社に泊まり込んで研究に没頭することもあった。ベートーベンの同じ曲を演奏家別に聞き分けては楽しみ、ステレオも一級品を好み、時には借金をしてまで最高級のスピーカーを買ったりもした。

このような振る舞いは、ふつう、組織の中ては疎んじられかねない。しかし池田は、35歳で電算機課長、41歳で電算機技術部長、47歳で取締役と、矢つぎばやの出世を果たした。なぜなのだろうか。

そこには、一人の人間が抱いたコンピュータへの型破りの情熱と、それを支える周囲の人々の努力によって、組織に新しい創造力が備わっていくプロセスが浮かび上がってくるようだ。

「ダイヤル事件」で認められた破天荒の天才

池田敏雄は1923年(大正12年)8月7日、東京市本所区東両国に生まれた。その年9月1日には関東大震災が起きている。

生家が両国国技館裏にあった関係からか、池田少年は相撲に興味をもち、ガキ大将だったという。東京市立一中(現在の都立九段高校)では柔道をやり、二段。また、バスケットボールは中学、高校(旧制浦和高校)時代を通じて続け、富士通入社後もチームを組んで国体3位となった。そのさい、センターとして出した65点という個人得点記録は、いまだに破られていないとか。あらかじめ数百通りもの攻撃パターンを考えて、きわめてシステマティックに仲間を動かすのが作戦だったようだ。その経験は、のちに数々のコンピュータ名機を開発するプロジェクトチームをリードするときに生きたことだろう。

半面、少年のころから、一人で静かに深く考え込む習慣も培っていた。数学が大好きで、数学の雑誌に載った難問を解いては賞金を受けたり、なかでも特に幾何が得意で、ピタゴラスの定理の新しい証明法を発見したりした。このような幾何への興味は、生涯の趣味となった囲碁とともに、コンピュータの回路設計に存分に活用されたことだろう。

囲碁はのちに五段になったが、日本棋院に囲碁ルールの論理矛盾を指摘。改善策を提案し、この貢献で六段を与えられ、亡くなってから七段を贈られた。とにかく池田は考え出すと、とことん究めずにはおかない人だったのだ。池田は生涯をかけたテーマに趣味と道楽を生かしきった幸せな人だった。池田の人生にはひとつの捨て石もなかった。

数学者になりたかったが、戦争が激しくなる状況の中で、技術者への道を選び、1943年(昭和18年)東京工業大学電気工学科に進んだ。敗戦の混乱が続く1946年(昭和21年)に卒業し、富士通の前身である富士通信機製造株式会社に入社した。

呉清源九段との対局
呉清源九段との対局

入社後まもなく、池田敏雄の名を高からしめる出来事が起きた。ダイヤル事件だ。富士通の電話機が初めて日本電信電話公社(現NTT)に導入されたが、ダイヤルの作動に障害が起きたのだった。社内は騒然となった。その中で池田はダイヤルの作動を理論的に解析し、問題の本質を明らかにした。これによって、池田の型破りを温かく許すムードが社内に浸透したのではあるまいか。

池田の研究への情熱に応えるように、会社は1948年(昭和23年)、機構研究室を設置した。池田は研究室にこもり、交換機・電話機の改良研究に没頭し、ダイヤルスピードの精密測定が可能な電子式ダイヤル速度測定機を完成させた。これがきっかけになって、池田はコンピュータに目覚め、交換機のリレーを使用する独自のコンピュータ開発に取り組んだ。池田は「電話交換機用のリレーを回路素子として自動計算機をつくる」とよく話したという。この言葉こそ、富士通を通信機メーカーからコンピュータ・メーカーヘと変身させた、といってよいだろう。彼の研究は、コンピュータの前身である統計分類集計機へと花開き、1951年(昭和26年)、都庁に納入された。

コンピュータ企業への脱皮を先導した「信長型」戦略

当時の池田の上司が小林大祐だった。小林は第二次大戦中、レーダーでつかんだ敵機の位置を高射砲陣地へ送る「帝都防衛システム」の開発に加わった。ところが、肝心の高射砲陣地では旧態依然たる計算機を使っており、あまりに遅すぎて何の役にも立たなかった。それで、正確かつ迅速にデータを処理する計算機の必要性を痛感していた。

さらに、1950年(昭和25年)、MIT(マサチューセッツ工科大学)がまとめた第二次大戦中の軍用技術全集を読み、これからの富士通が取り組むべき新しいテーマの一つとして、コンピュータの開発を会社に提案した。小林は、自由奔放な池田の才能を存分に発揮させる場を整えるべく、社内の根回し役となった。

FACOM100と池田敏雄
FACOM100と池田敏雄

たとえば、当時の富士通は一日出勤しなければ一日分給料が減るという日給月給をとっていた。それで池田の勤務ぶりからして、月給ゼロ、賞与もゼロという時が続いた。さすがの池田も悲鳴をあげた。そのとき、池田をかばったのが小林だった。池田一人のために固定月給という特例で遇することになった。結局、池田は富士通の給与体系をも変えてしまったのだ。池田はまことに良き上司に恵まれたのである。

小林の提案を受けて、コンピュータの開発が会社の方針として決まった。ちょうどそのとき、朝鮮戦争の特需に沸き返る東京証券取引所の株式取引高精算用計算機を開発してみないか、という話が塩川新助を通じて舞い込んだ。塩川はすでに1938年(昭和13年)、電気学会の大会で「電気回路によって、二進法計算が可能になる」という発表をしていた。

塩川を顧問格に、池田がチーフ、それに山本卓眞と山口詔規が加わってプロジェクトチームが発足した。塩川は、池田によれば「昭和の曾呂利新左衛門みたいな方」で、先輩として最適な人だった。

彼らプロジェクトチームは何回も合宿した。それぞれ仕事を分担したが、演算回路の設計を受け持った池田は、これも使える、あれもいいと、新しい回路図を次々と考えてはノートにせっせと書き付けて、なかなかまとまらない。結局、山本が池田をバックアップすることになった。後に山本は「池田さんは、この演算回路はシンメトリーできれいだ、などとはしゃいでいたが、こちらは設計を急ぐはめになり、気が狂うのではないかと思った」と回想している。

湯川秀樹博士とFACOM100
湯川秀樹博士とFACOM100

その後、山本は一時、計算機を離れたこともあったが、電算機課長となった池田が相変わらず昼間は会社に出てこないような仕事ぶりなので、1958、9年(昭和33、4年)ころ、山本が課長代理になった。そのようなポストはそもそも会社にはなかったのだが、課長代理の名目で池田を補佐することになったのだ。池田はすばらしい後輩にも助けられた。

天才は、一般に孤立しがちである。池田の場合は、その天才を認め、支援を惜しまない上司、先輩、後輩に恵まれ、幸運であった。いや、池田の天才は幸運を引き寄せ、呼び込む天才でもあったといえるかもしれない。富士通という会社の側からいえば、日本の組織としては稀有なことなのだが、天才の足を引っぱることなく、逆に盛り立てることによって脱皮に次ぐ脱皮を重ね、自らをより大きく成長させていった。池田を信長にたとえる人がいる。信長は生涯に二度と同じパターンで戦わなかった。池田も、次々に新型のコンピュータを開発し、富士通の脱皮を先導したのだ。

山本は天才池田とのつきあいを回顧しつつ、こう発言している。「いまの日本の企業でも、天才の能力を組織的に生かす時代が来た……」すなわち「ちょっと変わっているけれども、仕事は相当やるな、とか、相当変わっているけれど、普通の人に出ない知恵を出すとか、いろいろな段階があると思います。そういう人たちを日本の社会にどう生かすか。これは変わりすぎているから会社のなかに置けないが、別の子会社をつくって、あるいは別の研究所に置いて腕を振るわせようとか、そういう工夫をしてでも生かそうという時代がきたのではないかと思います。」

この方法こそ、日本人のオリジナリティを世界に発揮させ納得させるもののように思われる。その意味でも、富士通における池田のケースは、貴重な先駆例として、もっと世に知らしめてもいいのではないだろうか。

コンピュータに取り憑かれた男

池田にとって、そして日本にとって最初の実用コンピュータである株式取引高精算用計算機は完成したが、商談は失敗に終わった。だが、池田はコンピュータ開発のおもしろさにすっかり取り憑かれてしまった。何としても研究開発を続けたい----池田はトップを説得にかかった。彼の説得力の冴えを、少々長くなるが見てみよう。

池田自身によれば「たまたま私が帝劇にロシアのバレエ団が来たときに見に行ったんです。そしたら、そこにちょうど社長の高さんがいらっしゃった。この方は、ときどきぼくと碁を打つという、たまたま話しやすい社長さんだったものですから、早速帝劇のバレエ休憩時間を利用して説いたわけです。IBMがその時代、年間幾ら日本における売上があるかということを調べておきましてね。富士通の規模からいったら、その時代でも膨大なんですよ。それで、あの十パーセントを取りたいからやらせないかと。

それから、ああいうクロスバーのマーカーなどは、コンピュータ的要素が非常に強いから、将来そういう交換機というものも計算機に近づくだろうと、私がそういう予想を申し上げたわけです。それで、どうしてもやらせてくれないかということで、たまたまきれいなバレリーナなんか見て酔っぱらってるときだから『OK、OK』てのもらったんですよ。(笑)」

さらに、1959年(昭和34年)に宇部興産から富士通に転じた岡田完二郎社長が、コンピュータ企業化の方針を明確に打ち出した。「岡田さんは、コンピュータに富士通の社運を賭けられたわけですが、なぜそうした気持ちになったか。一つには、コンピュータの将来性ということもあったことは事実です。もう一つは、富士通に池田敏雄がいたからだという説もあります。人に賭けるということはあり得ることですからね」と山本は語る。

池田もトップの信頼によく応えた。インデックス・レジスターという、いまの全世界のコンピュータ・メーカーが必ず使っているシステムなどを次々に発明したのだった。ただ、惜しむらくは当時の富士通の特許をとる技術が未熟で、業績として残っていないのが、まことに残念である。

FACOM128操作卓
FACOM128操作卓

日本から世界へ、孤高の挑戦

水を得た魚のような池田の活躍が始まる。新たに開発されたリレー式コンピュータは、レンズ設計の計算に威力を発揮し、日本のカメラを世界的な水準にした。さらに事務用にも本格的に導入されるようになった。だが、リレー式はあまりにも演算速度が遅い。池田は早くからトランジスタに目をつけた。

当時、同業他社は外国メーカーと技術提携をして開発を急いだ。池田は、提携するならIBMしかない、と言った。しかし、IBMは技術提携は絶対にやらない方針だった。そこで、辛いが自主独立路線を貫こうということになった。

大型のIBMに対し、日本では小型・中型で対抗しようとする意見が強かった。しかし池田はただ一人大型に取り組むことを主張し、とうとうトランジスタ使用の大型コンピュータFACOM222(「フジツー」と俗称)を開発した。

さらに、初めてICを搭載したFACOM230-60は1968年(昭和43年)に完成。コンピュータにおいて日本を米国とほぼ対等にし、富士通を国内一位にした。だが、それで満足するわけにはいかない。世界を相手にしたい。

それには、既存の膨大なアプリケーションソフトの国際的互換性を保証する「ユーザー利益優先」という基本路線をとるしかない。このIBM互換路線を採用するように主張したのも、池田だった。そのとき浮かび上がってきたキーパーソンが、ジーン・M・アムダール博士だった。アムダールは、コンピュータ時代を切り開いたIBM360シリーズを開発した人物で、その後継機の開発でIBMトップと衝突し、社外に去る。池田はさっそくアメリカへ飛び、アムダールと親交を結んだ。この縁から、IBMコンパチブルの超大型機Mシリーズが誕生する。後にこの互換路線はIBMとの間に紛争を引き起こし、AAA(アメリカ仲裁協会)が裁定を下すことになるが、それは池田没後のことである。

1974年(昭和49年)、カナダのコンピュータ・メーカーCCIの社長を出迎えにいった羽田空港で倒れ、11月14日に帰らぬ人となった。51歳という若さであった。それはまさしく壮烈な戦死にほかならなかった。池田は当時常務だったが、亡くなって専務を贈られた。

社葬のおり、経団連記者クラブから是非にと弔辞の申し入れがあった。異例ではあるが、池田を慕う記者の代表がその死を悼んで読んだ。そのなかで彼は、「天馬空を行くがごとき活躍」と二回言って思わず絶句した。その姿は参列者の脳裏にいまだに焼きついて離れない。

FACOM128 演算リレー部分 電話交換機と同じものが使われている
FACOM128 演算リレー部分
電話交換機と同じものが使われている

参考文献

  • 『池田記念論文集』
  • 『富士通社史』
  • 『技術開発の昭和史』(森谷正規著、東洋経済新報社)
  • 『富士通の挑戦』(岩淵明男著、山手書房)
  • 『男たちの決断 -- 物語電子工業史・戦後編』(板井丹後箸、電波新聞社)
  • 『パックス・ジャポニカ -- 情報力が世界を征す』(國井利泰著、プレジデント社)

発行 : 富士通株式会社

沼津工場に続く緑に囲まれた道路

池田記念室見学のご案内

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・見学対象:中学生以上
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・開館:月曜~金曜(祝日を除く)の9時~16時